松前町について

愛媛県で一番小さなまち「松前町」

松前町(まさきちょう)は四国の愛媛県で一番面積が小さく、
車を使えば30分ほどで町内を一周できるコンパクトな町です。

西は瀬戸内海に面し、北は重信川を境に松山市。
東は砥部町、南は伊予市に接しており山の無い平地の町です。

町内には重信川の伏流水が湧き出る泉がたくさんあり
三つの親水公園が整備されるなど、水の恵み豊かな町です。

特産品について

①はだか麦

原産は中近東

日本には縄文時代後期~弥生時代に伝来

はだか麦の機能性成分の最も主要な成分は食物繊維

白米の15倍以上と云われています。

「β-グルカン」と呼ばれる水溶性繊維は、血液中の
LDLコレステロール値を正常化する働きで、
健康志向の高まりとともに世界中で注目されています。

カルシウムもお米の4倍

固めに炊き上がるためよく噛む必要があり強い歯やあごの育成にも役立ちます。

松前町のはだか麦には義農作兵衛の心を受け継ぐかのように途切れることなく盛んにはだか麦が生産されています。

②珍味・海産物

松前町は地元瀬戸内海で獲れる新鮮な小魚を主原料とした極めて良質の小魚を加工し、
珍味としての産地として大きく発展してきました。

カルシウムが豊富な食品として、日常だけでなく全国の学校給食や介護施設などでも使われています。

種類や原料は製法もさまざまです。

松前町内では20社余りの業者があり現在は松前町の地場産業として
年を追う事に発展し国内では小魚珍味の大半を生産してます。

松前漁協では伊予灘で育った「鱧」も採れます。
愛媛の鱧は肉厚で旨味が濃く、京都の料亭などにも多く出荷されています。

スポーツについて

①ホッケー

愛媛県で初めての日本ホッケー協会公認人工芝競技場

高い耐久性と最高級のプレー性能を有した芝で、2014年にオランダで開催された
ホッケーワールドカップのメインスタジアムにも採用されたものと同じです。

ホッケー場を活かして強豪チームの誘致や、小中学生の選手の発掘・指導を行っています。

②はんぎり競漕

-まさきの夏を盛り上げる!まさき町の大イベント「はんぎりH-1グランプリ」-

江戸時代から続く文化。当時は漁師が魚を運搬するために、沖合の船までの移動手段として誕生

味噌や酒などの製造の時に使う「桶」を「半分に切った」ものが「半切り」の由来

昭和35年ごろまで松前町でははんぎりは愛用されていました。

昭和47年、蛭子神社の拝殿新築祝賀行事の際に「はんぎり競漕」として復活。
それからまさきの夏の風物詩として続いています。

毎年、まさき町夏祭りの中ではんぎり競漕「H-1グランプリ」が快哉れています。

-松前の歴史が動いた瞬間3選-

①松山城のルーツは松前にあり?

起源は明らかではありませんが、平安時代初期すでにこの地に 定善寺(性尋寺)(今の金蓮寺)があり、軍事交通の要衝として、 境内に砦が設けられたのが始まりであろうといわれています。

松前城は地の利を得た自然の要害堅固の城だった。

加藤嘉明が文禄4年(1595)に淡路志智城(現兵庫県西淡町) より、6万石をもって松前城に入りました。嘉明は伊予川(現重 信川)を改修して、松前港の大拡張を行いました。関ケ原の戦 いの功により20万石となった嘉明は、慶長8年(1603)松山城 に移り、松前城は廃城となりました。 

現在の松前城跡は天保以降ニの丸を耕地化し、余り土を盛った所になります。大正11年(1922)龍燈の松が大風で倒壊して、松前城を偲ぶものがなくなりました。そこで大正14年(1925)10月に記念碑が建てられました。また現在の松山城の筒井門は松前城からの移築と云われています。

②松前の農業を救った「義農作兵衛」(1688年~1732年)

義農作兵衛は、松山藩筒井村(現松前町筒井)の貧しい農家に生まれました。当時は士農工商という厳しい身分制度が確立された封建時代で、作兵衛は幼い頃から農業に励みました。享保の大飢饉の時、人々は食べる物もなく、餓死者が続出しました。こうした中で、作兵衛は毎日休むことなく耕作に精励していましたが、飢えのため田んぼに昏倒してしまいました。近隣の者が、「命に代えられぬでの、その麦種を食べてはどうか。」と勧めましたが、作兵衛は「農は国の本、種子は農の基。一粒の種子が来年には百粒にも千粒にもなる。僅かの日生きる自分が食してしまって、どうして来年の種子ができるか。身を犠牲にして幾百人の命を救うことができたら私の本望である。」と言い、麦種一粒食することなく後世に残し、大義に死にました。安永6年、尊い彼の死に対し藩主松平定静は、碑を建立し明治14年には義農神社、そして、大正2年には頌徳碑が建立されました。このように、義農作兵衛の精神は「義農精神」として、今日も脈々と受け継がれています。

松前町では令和3年度に義農大賞表彰制度を創設し、令和4年度に第1回となる義農大賞表彰式を開催しました。義農大賞は、義農作兵衛の顕彰と町の全国的知名度の向上を目指し創設した表彰制度で、全国から他者を思いやる心義農精神を持ち活動を行っている個人・団体を募集し、その功績を表彰しています。

③おたたさんの始まり「瀧姫伝説」

永承年間(1046~1052)京都の公卿清原朝臣の妹、御多喜津姫(瀧姫)が身分違いの愛を遂げようとして罪に問われ、侍女3名と伊予の国に流刑となり松前の浜に漂着しました。漂着した瀧姫たちの身の上話を聞いて、人情厚い松前の人々は、いたく同情して親切丁寧に世話をしました。瀧姫らも温かい松前の人々の人情に心動かされ、この地を永住の地と定め自活の道を魚の行商に求めたと伝えられています。瀧姫は、平元結に銀のかんざし、どんすの帯を前結びにし、黒羽二重の紋服に裾をからげ、桶を頭上にいただいて、松前・松山城下を「魚いらんかえ-」と売魚婦となって売り歩きました。瀧姫の死後、松前の婦女子は、瀧姫と同じ服装をして魚を売り歩くようになりました。

松前にはまそのほかにも沢山の史跡や歴史的に興味深い話があります。
観光協会では松前に残る歴史を後世に伝える活動に賛同します。